東欧革命・・・3
九一年にはクロアティアでクロアティア人とセルビア人の間での内戦がおこりました。
さらに、九二年からはボスニア目ヘルツェゴヴィナ(首都サライェヴォ)でセルビア入(人口の三二%)・クロアティア人(人口の一五%)・モスレム人(旧ユーゴで「民族」として認知されたイスラム教徒でボスニア人ともいいます
人口の四〇%強で最大多数派)の三民族集団問で権力抗争がおこりました。
同国内では少数派であるセルビア人とクロアティア人にはそれぞれの「本国」(新ユーゴとクロアティア)が控えてボスニアの「同胞」を支援するかたちで、これら三民族間に激しい軍事衝突が生じています(ボスニア内戦)。
「本国」の支援で軍事的優位にたつセルビア人が全土の三分の二以上を、クロアティア人が三分の一近くを支配し、モスレム人支配地域は一割に満たない状況で、ボスニアからは周辺に多数の難民が流出しました。
九二年、国連は平和維持軍(PKF)をクロアティア・ボスニアに派遣し、ボスニアとクロアティアのセルビア人勢力を支援する新ユーゴに対する経済制裁を宣言しました。
クロアティアでは九二年に一応、停戦が実現したが、旧ユーゴにおけるボスニア内戦は紛争が泥沼化しました。